昭和40年04月25日 朝の御理解



 肉眼をおいて心眼を開けと、肉眼をおいて心眼を開くというおかげを頂いた時、物の見方、考え方、それが有り難い事に、幸せな事に見える、聞こえしてくるようになるという。昨日、久留米の石井喜代司さん達が夫婦で参ってまいりました。丁度、北野の秋山さんと、それから、久しぶりにお参りしてまいりました善導寺の青木さんと、お参りしておる所へ丁度夫婦の者で参ってまいりました。
 それでいろいろ、まあ、あの人流のまあ、話をしてますけれども、なかなかその、焦点がいいですね、焦点の置き所がいい。最近商売が非常にこの、不如意であるである。思うようにならん。皆さんも御承知のように、もう非常な努力家なんです。同時に、弟の方は、まあ、商才に長け如才のない、いわゆる商売上手なんです。ですから、弟と自分とが組んでいけば、その、まあ、繁盛すると。
 商売上手と努力家の兄さんと兄弟2人でやってますからね。ゴム関係のことをやっております。ところが最近はその、する事なす事が、この、右が左、左が右というようにその、思うようにならない。そこで段々わからして頂いた事は、これは、商売が上手とか、ただ努力をしただけで、言わば、儲けだすもんでもなかならければ幸せになるもんでもないと言う事。神様のおかげを頂かなければできる事ではないという事。
 今まではそれを、分かっておるようであって分かっていなかった。ところが、最近なら、分かったかと言って、その、ほんとに分かってはいないけれども、まあそれを、実感的にですね、なるほどだ、という事がその分かってきたという。ありがたいと思うんですけれども、あぁ、この頃お父さんがその事をいつも家でそのお話をするっちゅうわけですね。そうすると、小学校の五年生になりますその、隆一って言うんですけども息子がおりますが、それが、この頃のお父さんの言うことが分かってきたと言う。
 それがやっぱり実に難しい事なんですね、実を言うたら。ところがそれが分かる。ね。信心さして頂いておると神様が段々本当の幸せ、本当のおかげを下さろうとする働きが始まってくると。例えて言うならば、それらの、家内のかおりさんが言っておるんですね。この頃、隆一がお父さんの言う事がわかるようになりました。私はこの頃、私にその事を話してくれますから、私は実はもうビックリいたしましたと言うてから、かおりさんが話しております。
 今お父さんが、そのあんまり都合がよくないと言うようなことからです、あれがお父さんの実力だということ。今までは、例えて言うならば、千円しか持つことの、持つ力のない喜代司さんにです、お父さんに、神様が一万円持たしてござったっちゅう。ところが、この頃神様が、本当にお父さんの実力だけのものしか、もたしなさらない。だから、その実力が出来てくるに従って、千円もてるものが二千円もてるようになり、二千円もてる者は三千円持てるようになり、いや、自分がいよいよ意欲してです。
 沢山の金を持ちたいと思うならば、そこに、努力をし信心の精進をさして頂いたら段々その持てるようになるというな事をですね、その、隆一さんが、あの、お母さんに話してくれたというわけなんです。もう私はびっくりいたしましたと言うて、昨日話とります。ね。そして、喜代司さんがまた言われることです、先日、朝、目が覚めた所が。まだ真っ暗だったという。手探りでその、何かを探そうと思ったけれどもなかなか見当たらなかった、手に触らなかった。
 その時に先生私感じたことがその、ただ今申しますように信心する者は肉眼をおいて心眼を開けと言うことであったという。私共がお先真っ暗の生活をしておると、この世は苦の世だ苦の世界だと皆が思うておる。この世の難儀はもう当たり前のように思っておる。それは真っ暗な生活であり、手探りの生活である所に不安があるのである。焦燥があるのである。その不安が焦燥が愈々幸せになれない元を作っていくのだと言う様な事を、まあ、手探りに真っ暗い中で手探りしながらまあ感じたとこう言うのです。
 それをですこの頃、少しその肉眼がです、置いて心眼が少しずつ開けてきた感じがするというわけです。これもその時善導寺の青木さんが話しておるんですね。秋山さんがお商売が同じですからいつも、一緒になってお話をするんです。もう私は親先生、もうここに丁度四年間ご無礼いたしております。青木さんが。四年間ご無礼しております間に、秋山さんの信心の心境が進まれたのに、会うたんびに驚きます。
 最近は椛目に御造営が出来ると。御造営になるということを聞かせて頂いて、これはいよいよ敷居が高こうなるのに向こうの方に移られてからにでもなったら、いよいよ敷居が高こうなるだろう。思うておるところへ、秋山さんのお導きを頂いてお参りしたんですけれども、とにかくその私共の見方とかん、いわゆる考え方と言うのがね、もう同じ事柄をです、私は大変心配しておるのに、青木さん心配せんでよかよ、おかげになるがって言うてその、もう安心しておられるように、そのあるという。
 そんなこと一つも気にしておられないという。ね。そこで私は肉眼を開いて行きよる者、いわゆる肉眼だけの世界に生活する者の違いを感ずるですね。喜代司さんが言うておられるのもそれなんです。真っ暗闇に言わば手探りの生活をしておると、そこにこの世は闇だというようなことになる。この世を苦の世だ、苦の世界だということになる。そこにここに、例えば光が点ずると。明るくなると。いわゆる肉眼をおいて心眼を開かして頂く時に、今まで見えなかったものが見えてくるようになる。
 本当の姿が見えてくるようになる。それぞれではない。難儀と思うておったのは、神様の氏子を幸せにせねばおかんという働きだけである。まあ、絞って言うならば、一切が神愛である事がはっきり分かってくる。ね。一切が神愛であると言うことがです、分からして頂く時に悔やまんでもすむのであり、お礼の生活が出来るのであり。ね。いわゆる大和さんが頂いておられるように生礼である。生きたお礼ができれる、生きたお礼ができれる生活が出来ると言うのである。
 おかげをおかげと分かるから、ね、そこに喜代司さんが夫婦で話しておられる親子三人でその、お父さんの話が分かるという隆一さんの話です。百円の生活、百円しか持てない、例えて言うならば、百円しか持たない実力しかないのに、千円も持たして頂いておる所に重荷がある。最近感ずる事は、例えばその神様に与えられた本当の実力に、与えられたその生活というものが非常に楽である事に気がついて来たという。ね。
 ですからその、百円の生活から二百円の生活になりたいというほうが、愈々肉眼をおいて心眼を開くことに精進さして頂いたら良いと言うのである。そこに魂がありね、希望が湧いてくるという。それが実感的にそれを感じておる。私共は肉眼をおいて心眼を開こうとする努力をせずに、そして千円持てるものは、持てる力しかないのに一万円も持ちたい。一万円しか持つ力が無いのに百万円も持ちたいということだけを願う。
 これがご利益だけを願うということになる。そしておかげを頂いたに致しましても、やはり苦労は尽きないと。愈々重みが増して来るというのである。ね。そのお礼を麻生さんのことで、この頃秋永先生が、まあ説教でその事話されたんでしょう。その事を話しておりました。最近あの商売で、まあ欠損をした。ね。結局自分の実力以上のものは取り上げられた。ところがです、その、現在取り上げられたその、自分の例えば実力内で、お商売さして頂いておるが、実に楽であると言う。
 そして必要な事が必要に、例えば応じておかげを蒙っておるという。そこがもう不思議なくらいにスムーズになっておると言うて、麻生さんがその青年会のときに話しておったと言う事を昨日もそれを話しておりました。お互がどうでも一つ信心さして頂く者は肉眼をおいて心眼を開かないと、何時までも手探りの生活をしなければならないね。不安である。信心さして頂いておってもやはりお先は真っ暗であるね。お先真っ暗であるのに信心しておるとどうにかなるだろうと言った様な安易な考え方ではいけない。
 確実に自分の力を頂いていく、その頂いた範囲以内がです、ね、拡大されてくる大きくなっていくと言う。そこに信心の楽しみ、精進の喜びというものを味合わせて頂きながらの生活でなければいけない。信心をさして頂く者は肉眼をおいて心眼を開けと。ね。心眼を開かして頂く所の精進、ね、それはまず自分の実力を知ることだと。お酒でもそうですもんね、一合飲んで酔う人もある。盃一杯で酔う人もおる。ね。
 五合飲んでも一升飲んでも酔わない人がある。ね。有り難いと言う器でもです、段々稽古が出来るに従って、それがお酒が強うなるの、有り難いが強うなってくる。ね。有り難しが強うならなければ私は実力とは言えないと思う。神様のおかげを頂いて、どうぞ一つ肉眼をおかしてもらわなきゃ、自分がだから現在難儀と感じておる事をです、これは実際、難儀ではないという事を導入でも一つ知らなければいけない。ね。
 これは大体難儀ではないのだけれど、自分が難儀を感じておるとするならば、言わば自分は肉眼を持ってそれを見ておるのであると。心眼をもってそれを開き見らして頂く時に、お礼を申し上げる事に違いはないのだけれどもと言うと事を導入で分からしてもらう。として、翻然と自分の心の眼を開かしてもろうて。その事に対してお礼の言えれる生活。私はあの昨日関さん達親子、丁度御祈念前の時間に見えてからでした。
 お届けをされますのに、先日、少し遠方のところに、花嫁スクールの受け入れをしてあった。ところが、なにかえげつない事でその断って来たっちゅうんですね。ああ、これは、神様のご都合に違いないと思うて、まあ、心ようその、いいですよと言うてから、実は、それをあてしとったんだけれども、その気持ちを、その、それを信心で受けさせて頂いたというわけなんです。
 ところがその後にですやっぱり同じその日に、ほんの自分の近所北野の近所にです、三軒ご祝儀のうき合いをさして頂いたち。もう本当に神様のご都合というかね。そういうときに私がどうでしょうか。私がそん時無理をいうてそりゃ困りますよと。私共には私の方には当が有りますよと。それでは困りますというてそれを強引に、私が仕事さして頂いておったら、近所に言わば掛け持ちで三軒の花嫁作りが、言う様なおかげを下さろうとしておるのに、それを頂く事が出来なかっただろうという事を言うております。
 ね。こういうようにして、なるほど神様のご都合ということがです、言わば、その心眼ってこんなぐあいにして開けていくのじゃないかと私思うですね。その時その時のことに対して、信心にならなければ、心眼は開けてこないと。喜代司さんもそんな事を言うております。それが分かって来よるけど、すっきりと、はっきりとはまだ自分のものにはなっていない。ということをいっとります。
 神様の働きというのは、その後の事です。昨日はこんな事も二人で、親子で話しております。先生、私は、ここに長年お参りさせて頂いておるんですけれども、まあ、こんなこと初めてお届けしますけれども、もう、私の方には先生もう十何年以上も金が残りませんちゅう。もう十万円なったら必ず何かがあって引き落とされてしまうちう。これは、関の家の巡りと思うておりましたとこういうのである。ね。
 ところが、親子三人の者が、最近、もう、おお言おうと触ると同様な話をする。どうぞ先生、おかげを頂きましてですね、十万円貯まりましたけれどもです、言わば、引き落とす事がなくなってきたという。ね。親子三人で言いよります。もう、これだけは、例えば、私共に下さったお金だけれども、これから以上に下さるお金はです、神様が御造営の為に下さる金に違いありませんから、もう、親子三人で何処まで、どれだけおかげが頂けれるか、もう、それが楽しみだ。
 どうぞ、精一杯のおかげを頂かせて下さいと言うて、夕べはお届けをしております。私は、この信心の、言わば実力とか、肉眼をおいて心眼を開くというような事はです、そういうような、私は信心から、肉眼がおいて、心眼が開いていく事ができるようになってくるということが私感じられます。昨日私、そういうような御取次ぎをいくらもさしていただいたんですけれども、実例を持って、言うなら。
 お互いいつまでたっても、肉眼で見た世界だけで事を裁いておる。それではいつまでもお先は真っ暗である。いわゆる石井喜代司さんが言われるように、真っ暗な中で手探りの生活をして居る様なものである。ね。心眼を開かせて頂きますと、それがはっきり分かって来る様になる。どういうふうに神愛だという事が分かって来る様になる。神様のおかげを下さろうとするご都合である事が分かって来るようになる。
 えげつない言わば関さんのその場合、ね、断ってきたんだけれども、これは神様のご都合に違いはない。これがもう少し分かってきたらどういうご都合かと、神様はよりよい大きなおかげを下さる為のご都合に違いはないと確信が出来るようになる。もうここにすでに肉眼をおいて心眼を開いて行きよる者の姿である。とても遠隔地であったら一軒であったのにです、それが向こうから断って来たおかげで、すぐ近所にです。
 三つのご祝儀を受けあう事が出来たと言うのである。そういうような、私は体験を積ませていただいて、初めて肉眼をおいて心眼を開く事が出来る。この世を苦の世苦の世界ではなく、神愛の満ちわたった世界であるという事。万事、どういうようなことの中にでも、お礼を申し上げる事以外にないという事が分かって来るときです。私どもの悩みを解消する。おかげの道は開けてくると言うことになるのじゃないでしょうかね。
   おかげを頂かねばなりません。